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さて、世界遺産紀行は続きます。
(現在、興福寺を散策中です〜!)

三 重 塔
まず、前回、後回しにしてしまった三重塔から、ご紹介しますね!
三重塔は、-その1-でご紹介した南円堂から、階段を降りたところに建っています。
そのすぐ近くには、摩利支天石が安置されております〜

康治2年(1143年)、
崇徳(すとく)天皇の中宮皇嘉門院(こうかもんいん)聖子が建てたものだそうです〜☆

治承4年(1180年)に焼失しましたが、間もなく再建され、北円堂とともに興福寺で最古の建物です。

木割が細く軽やかで優美な線をかもし出し、平安時代の建築様式を伝えておりま〜す♪

それにしても、写真写り悪すぎ!


さて、今回の世界遺産紀行初登場の崇徳天皇ですが、
いったいどんな人物だったのでしょう? 
ちょこっとだけ、その人物像を見てみましょう!

まずは、系図をご覧下さい〜
(こちらは、ぱいんの自作なんですよ! よって、ちょっと不出来ですが・・・☆)

崇徳天皇と聞いても、あまりピンと来ない方でも、
この百人一首のお歌はご存じの方も多いのではないでしょうか?(超有名ですもんね〜)

  
瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ

恋歌と呼ぶには、あまりにも激しい詞のため、
一度は帝位についたものの、
政争の犠牲として譲位せざるを得なかった・・・
でも、
なお将来にかける執念を詠んだものだとの説もあります〜!
(彼がもう一度逢いたかったのは、恋人ではなく帝位だったという説です)

では、彼はどんな政争に巻き込まれたのでしょう?
系図をごらんいただくと、崇徳天皇の生きた時代は、
平家の台頭からその滅亡にかけての時代だったってことが分かりますよね!

世は
貴族の時代から武士の時代へと大きく動いていきます。
でも、そういう時代の動きとは別に、彼には
悲しい出生の秘密があるのです。

崇徳天皇の母である藤原璋子は、白河法王の猶子となって鳥羽天皇に嫁ぎます。
華やかであでやかで、とっても美しい女性だったそうですよ〜♪

が、問題は女に目のない白河法王!
かわいがって養育しているうちに、璋子のあまりのかわいらしさに、
ついつい手を出してしまって、いわゆる男女の関係になってしまったそうなのです。
(なんちゅう、やっちゃ!)

そんなことは露知らない若い鳥羽天皇、
美しい璋子を、それはのめり込むように愛したそうです。
が、恐ろしいことに、法王と璋子との関係は、
鳥羽帝に嫁いでからも続いていたというのです〜〜〜(きゃぁー!)

そして、璋子は懐妊します。
出産のため、璋子が宿下がりをしているとき、ついに鳥羽帝は知ってしまうのです。
祖父である白河法王と、妻・璋子の不倫関係を!

なんちゅう女や!
おまえの顔なんか二度と見たくない!!

となるなら話は分かるんですけど、
それでも、璋子の美貌には十分惹かれていた鳥羽天皇、
璋子&白河法王に向けられるはずの恨みは、
なぜか、生まれたばかりの崇徳くん一身に向けられてしまうのです〜

鳥羽帝は崇徳くんを憎みます。
系図をご覧いただくとお分かりのように、
崇徳くんが、白河法王の息子だとしたら、鳥羽帝にとっては叔父になるんです。

我が子ということになってはいるけれど、実は自分の叔父である!
ということを皮肉って、
鳥羽帝は、崇徳くんのことを、
『叔父子』と呼んでいたそうです〜
(崇徳くんには、何の罪もないですのにね・・・)

もちろん、そんな因縁のある崇徳くんを、
鳥羽帝としては自分の跡継ぎにはしたくなかったはずです。
が、悲しいかな・・・彼は、白河法王の傀儡天皇だったんですねぇ
祖父である白河法王に逆らえるはずもありません。
仕方なく、崇徳くんに御位を譲って、自分は上皇となります!

で、虎視眈々と待つんです。
白河法王が没するのを!
(おぉ・・・まさに骨肉の争い←怖いーーーっ)

やがて、ほどなく
「その時」はやってきます。
鳥羽帝は、積年の恨み!とばかりに、
あっさり、崇徳くんから帝位を取り上げ、
崇徳くんの異母弟にあたる、近衛くんへの譲位を迫るのですーーー

あわれ、
崇徳くんは、たった3才の近衛くんに、御位を取られてしまいます!
が、近衛くん、たった17才で崩御あそばされてしまうのですーっ
今度こそ帝位は我が子に!!
の、望みもむなしく、
鳥羽上皇は、崇徳くんの御子である重仁親王ではなく、
崇徳くんの同母弟、
後白河くんを帝位につけます〜

もう、堪忍袋の緒も切れたぞーーーっ
とばかりに、鳥羽上皇の没後、崇徳・後白河兄弟は、完全に袂を分かってしまいます。
有名な、
『保元の乱』です!
この乱によって、武士が台頭してくるんでしたよね・・・

が、天は最後まで、崇徳くんに味方はしてくれませんでした。
後白河天皇軍に破れた崇徳上皇軍は、
平忠正、源為義ら主要武将は斬刑となり、
さらに
崇徳上皇自身は、讃岐に流されてしまうのです〜(>_<)

わわわ・・・
長くなってしまいました〜〜〜
本当にお気の毒としかいいようのない崇徳天皇ですが、
こうして、こんな美しい三重の塔を願建してくれる皇后がいたってことが、
まだしもの救いでしょうか・・・
せめて、彼女といるときだけでも、
ひとときの安らぎを得ていてほしかったなぁ〜なんて思います。

なんだか今回の紀行は、完全に、崇徳天皇モードに陥っちゃってましたねーっ

では、最後に五重塔をご紹介して、今日の紀行はお開きにしたいと思います〜!
  (今日は塔特集でしたね〜〜〜)

この五重塔は、天平2年(730年)、興福寺の創建者藤原不比等の娘光明皇后によって建立されました。

その後5回の焼失・再建をへて、応永33年(1426年)頃再建された日本で2番目に高い塔だそうです。

創建当初の位置に再建され、古の様式を踏襲しながらも、中世的で豪快な手法も大胆に取り入れられております。
創建当初の高さは約45mで、当時は日本で最も高い塔でありました〜!

不比等&光明皇后(光明子)に関しては、こちらの系図をご覧下さいねー♪

次回は、元興寺をご紹介したいと思ってます。
またおつきあいいただければうれしいです〜〜〜☆

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